お世話になっております。

昨今、オンオフ共に忙しくブログ更新が遅れておりました。溜まっていた写真もあるので展開させていただきます。

先日は、栃木県下野市にある(参考 下野市観光協会様:天平の丘公園)様によりました。

こちらには古墳群や国分寺、国分尼寺、下野薬師寺跡地、そして歴史資料館などがあります。

この付近はともかく古墳がおおいです。以前、摩利支天塚古墳にお伺いしたことはありまして、巨大な前方後円墳でした。円墳の上に祠があり摩利支天が祀られていて、例大祭もおこなわれているようでした。古代の王の墓なのに神、それも天部神(てんぶしん)が祀られているって不思議ですよね。

広いエリアなのでじっくりみると1日コースでしょう。今回は国分尼寺の跡地と歴史資料館に立ち寄りました。

跡地とは言えなかなか感慨深いです。

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そもそも(参考 Wiki様:国分寺)って全国あちこちに地名がありますよね?その理由が結構重要だったりします。

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国分寺(こくぶんじ)は、741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれる。正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」。なお、壱岐や対馬には「島分寺(とうぶんじ)」が建てられた。

日本の国分寺・国分尼寺の先例として、隋王朝を建てた文帝・楊堅による大興国寺(大興善寺)があった。その後の唐王朝では、則天武后による大雲寺、中宗による竜興寺観、玄宗による開元寺があった。聖武天皇は、天平9年(737年)には国ごとに釈迦仏像1躯と挟侍菩薩像2躯の造像と『大般若経』を写す詔、天平12年(740年)には『法華経』10部を写し七重塔を建てるようにとの詔を出している。『続日本紀』『類聚三代格』によれば、天平13年(741年)2月14日(日付は『類聚三代格』による)、聖武天皇から「国分寺建立の詔」が出された。その内容は、各国に七重塔を建て、『金光明最勝王経(金光明経)』と『妙法蓮華経(法華経)』を写経すること、自らも金字の『金光明最勝王経』を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺とすることなどである。寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められた。
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とありますように、国分寺は僧侶の寺で「金光明四天王護国之寺」、国分尼寺は尼僧の寺で「法華滅罪之寺」として、全国、国単位、今でいえば県単位に設立して、僧を常駐させ、国家鎮護を祈らせたようです。

(参考 Wiki様:護国三部経)という経典があります。

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護国三部経(ごこくさんぶきょう)とは『法華経』『仁王経』『金光明経』の三つの仏教経典である。「鎮護国家三部経」「鎮護国家の三部」とも。その呼び名の通り、国家の安泰を願って用いられた。
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このお話しはいろいろ広がりがあるようですが、一旦、国分寺絡みのところだけ引用します。つまり、本当に護国経典で鎮護国家をはかったのですね。個人的にはこういう場所で再びそうした祭祀が復活したらおもしろいなあ、と思ったりしています。どうもそうした祭祀も春分や秋分など暦の大切な時に行われたようですね。

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そういう背景知識がありますので、この国分尼寺跡地も有難く感慨深く歩き、多分、本堂があったところで、「南無妙法蓮華経一切諸神善神」と唱えます。まあ、国分寺だったら「南無金光明最勝王経一切諸神善神」でしょうか。遠く、天平時代に思いを馳せ、空を見上げます。今は桜の名所で3月になると花まつりが開催だとか。暖かくなったら花見もいいですね。

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続いて、歴史資料館へ。何と無料。

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何ですか?wご当地アニメキャラ?マロニエール?だとか。栃木県の県木がマロニエの木だからなんでしょうがw 地元でもしらんかったですw でもこれもヒットすれば、「君の名は」みたいな聖地になるかも。。。。w

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入ってみますと、なんと、重要文化財ばかり、これは凄いですね。こういう地元の歴史、民俗資料館、本当に侮れないっす。

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県内外の研究者や市町村の職員さん、ボランティアの方々の汗の結晶ですね。本当にありがたいです。このような歴史コンテンツみせてもらえるのは。何もない空間に歴史というコンテンツが3Dのように眼前に広がってくるではないですか。

圧倒の展示をみつつ、おおお!っと嬉しくなったのが例の金光明最勝王経!勿論、写本ですが。でも、有難いでしょう。顕教経典ながら、持つだけで呪力を表すというありがたいお経典です。今日はこれだけでGJ(GoodJob)です。

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その他、下野薬師寺の瓦の展示など。下野薬師寺は日本三大戒壇の一つだったようです。戒壇とは国家が僧侶を輩出する場所です。凄い場所であったようです。歴史的に有名な道鏡の左遷先になったりと。
いずれにしましても、この後、中央政権の移り変わり、真言宗、天台宗の興隆、更には武家の興隆による荘園の崩壊などにより、この戒壇は失われていきます。歴史はロマンでもあり侘しくもありますね。

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さて、こういう場所では必ずパンフレット的なものを買いませんと。勾玉作成キット?なるものも買い、次の場所へ。

勾玉できになったのか、久しぶりに小山のストーンショップへ。(参考 :石の館)さんです。

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水晶を始めとしてありとあらゆる石が売ってます。しかもリーズナブルな価格で。自宅にある1メートルぐらいのアメジストドーム(重量、60キロ、購入時7万程度、多分、市販価格、100万~200万ぐらいでしょうか)もこちらで買いました。(かなり昔に中華街で台湾のある道士さんが来た際に開光してもらいましたが。。。)

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この日は家族が腕輪がほしいというので、四柱推命の喜神を見立てて、木火土金水の五行を、石の色と謂われなどで判断し、また故事付けかもしれませんが、易の数字などにあわせて選んであげました。このように意味を込めるって大切かと。

さて、実は元々の行先は温泉でしたw いつもの栃木温泉、湯楽の里さんへ。

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雛飾り!もう、3月が近いですね。

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〆は地元の道頓堀です。お好み焼きですが具材が凄いw

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引き続きよろしくお願いいたします。

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お世話になっております。

先日もランチ散歩をしてみました。青山通りを更に進み、赤坂御用地沿い、カナダ大使館の隣にある(参考:高橋是清翁記念公園)です。結構歩きます。ここには是清公の自宅がありましたが、2.26事件で反乱した叛乱軍襲撃部隊に胸に6発の銃弾を撃たれ、暗殺されてしまった悲劇の場所でもあります。

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「第20代日本国総理大臣・高橋是清の邸宅跡であり、昭和13年(1938年)に高橋是清記念事業会が東京市に寄与し、昭和16年(1941年)に記念公園として開園したものである。」だ、そうです。

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(参考 Wiki様:高橋是清公)
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高橋 是清(たかはし これきよ、1854年9月19日〈嘉永7年閏7月27日〉 - 1936年〈昭和11年〉2月26日)は、日本の幕末の武士(仙台藩士)、明治、大正、昭和時代初期の官僚、政治家。立憲政友会第4代総裁。第20代内閣総理大臣(在任 : 1921年〈大正10年〉11月13日 - 1922年〈大正11年〉6月12日)。栄典は大勲位子爵。幼名は和喜次(わきじ)。財政家として知られているため総理大臣としてよりも大蔵大臣としての評価の方が高い。愛称は「ダルマさん」。

1854年9月19日(嘉永7年閏7月27日)幕府御用絵師・川村庄右衛門(47歳)ときん(16歳)の子として、江戸芝中門前町(現在の東京都港区芝大門)に生まれた。きんの父は芝白金で代々魚屋を営んでいる三治郎という人で、家は豊かであったが、妻と離別していたので、きんは中門前町のおばのところへ預けられたこともあり、行儀見習いのために川村家へ奉公していた 。庄右衛門の妻は庄右衛門の手が付き身重になったきんに同情し、こっそり中門前町のおばの家へ帰して静養させ、ときどき見舞って世話をしたという。是清は生後まもなく仙台藩の足軽高橋覚治の養子になる。
その後、横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾であるヘボン塾(現・明治学院大学)にて学び、1867年(慶応3年)に藩命により、勝海舟の息子・小鹿と海外へ留学した。しかし、横浜に滞在していたアメリカ人の貿易商、ユージン・ヴァン・リードによって学費や渡航費を着服され、さらにホームステイ先である彼の両親に騙され年季奉公の契約書にサインし、オークランドのブラウン家に売られる。牧童や葡萄園で奴隷同然の生活を強いられ、いくつかの家を転々とわたり、時には抵抗してストライキを試みるなど苦労を重ねる。この間、英語の会話と読み書き能力を習得する。
1868年(明治元年)、帰国する。帰国後の1873年(明治6年)、サンフランシスコで知遇を得た森有礼に薦められて文部省に入省し、十等出仕となる。英語の教師もこなし、大学予備門で教える傍ら当時の進学予備校の数校で教壇に立ち、そのうち廃校寸前にあった共立学校(現・開成中学校・高等学校)の初代校長をも一時務めた。教え子には俳人の正岡子規やバルチック艦隊を撃滅した海軍中将・秋山真之がいる。その間、文部省、農商務省(現・経済産業省および農林水産省)の官僚としても活躍、1884年(明治17年)には農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任し、日本の特許制度を整えた。1889年(明治22年)、官僚としてのキャリアを中断して赴いたペルーで銀鉱事業を行うが、すでに廃坑のため失敗。1892年(明治25年)、帰国した後に川田小一郎に声をかけられ、日本銀行に入行。
日露戦争 (1904 - 1905) が発生した際には日銀副総裁として、同行秘書役深井英五を伴い、戦費調達のために戦時外債の公募で同盟国の英国に向かった。
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石碑がありますね。

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なんと、「魚屋の息子⇒武家の養子⇒(ヘボン夫妻に学び)⇒(イギリス人シャンドのボーイ)⇒(アメリカ留学ホームステイ予定)⇒(騙されて)奴隷⇒文部省初代大臣、森有礼公の書生⇒大学入学⇒教員⇒文部省入省⇒経産省(農林水産省)⇒特許庁初代長官⇒日銀副総裁⇒日銀総裁」というとんでもないキャリアの方です。

(参考 日本銀行様:第7代総裁:高橋是清(たかはしこれきよ))

アメリカで騙されて渡航費やホームステイ費用などを奪われて奴隷契約されたというのが、成功した地点から振り返ってみれば笑えますが、もしかしたらそのまま死んでいたかもしれませんし、ぞっとしますね。

さて、公園です。庭園ですね。こんな町中なのに緑が多いです。

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川もあり。

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そして、是清公の像です。

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折角なので、四柱推命でも見てみましょう。

〇甲癸甲
〇午酉寅

日干、甲の方は高貴の気を放ち、高い信頼を得て、貴人と縁を持つ可能性があります。時はわかりませんが、これだけでもいい配合ですね。これを暗示しているのが、魚屋の息子だったのに、武家に養子に取り入れられたり、その後も出世を繰り返しますが、最も甲の力を発揮していただき、貴人と出合えた瞬間はロンドンのシティー街の出来事でしょう。それは(参考 Wiki様:ジェイコブ・ヘンリーシフ卿)との出会い。彼はクーンローブ商会(後のあの、破綻したリーマンブラザーズ)、銀行家です。

時は、日露戦争より数年前。日銀副総裁であった高橋是清公は、軍艦等を購入するための外債募集のためアメリカにわたりますが、どこも公債を受けてくれる銀行が見つかりません。そして万策尽き始める中、日英同盟が結ばれていたイギリスにわたり、諸銀行から500万ポンドの公債引き受けをなんとかとりつけます。バクー油田の利権を獲得していたイギリス・ロスチャイルドは中立の立場があり、融資できませんでした。第1回の戦時国債は1,000万ポンドが必要でした。あと半分足りない。

絶望の中、ある、晩餐会に是清公が呼ばれます。そこで出会ったのが、シフ卿であったのです。隣席したシフ卿より「日本兵の士気はどのくらい高いか」などとの質問をうけ、高橋はここぞとばかりに答えます。あくまで憶測ですが、アメリカ奴隷育ちで叩き抜かれた英語やガッツに加え、達磨さんと言われるネアカのジョークやウェットトークに加え、客観的に日本の状況やビジネストークをプレゼンしたに違いありません。日本が勝つ可能性はこの時点でゼロであり、ほとんどの投資家がNGだったのですから。またシフ卿もはじめから銀行家だった人でなく、ロスチャイルド家とドイツのゲットー(日本で言えば被差別部落地域のようなところ)育ちでアメリカに渡ったときは一文無しだったようですから。シフ卿は是清公と意気投合するところがあったのでしょう。勿論、後に語るところでは、ロシアでの反ユダヤ主義(ポグロム)に対する報復投資でもあり、「ロシア帝国に対してたちあがった日本は神の杖である」とのち回想録にあるようです。
翌朝、500万ポンド公債をシフ卿が引き受けることが伝えられ、1904年5月、日本は戦時国債を発行することができたとのことです。その後は皆さんもご存知の通り、日本はロシアに勝ちます。シフ卿は後に明治天皇より勲章をいただいています。もし日本が負けていたら?多分、共産主義、社会主義国で今の経済や国体があったのかかなり疑問ですね。寺社仏閣も全てレーニン、スターリン像に置き換えられていたかもしれません。

シフ卿の四柱推命はどうでしょうか。

〇壬癸丁
〇寅丑酉

日干、壬の方で、大胆な投資家を地でいってますね。大胆ながら相当な切れ者で一時の情緒で動く人ではないですね。正に、甲の是清公はシフ卿より壬(水)の印綬を頂く形となりました。

その後、是清公は日銀総裁として恐慌の際には財政発動し恐慌を乗り切っています。
最期は、財政再建で軍部への予算縮小を考えていたとして、2.26事件で狙われてしまい凶弾に倒れました。この頃から明治維新に参加した世代から大正の世代に世代交代がおきていたことも背景にあるのでしょうが、予算閣議で川島陸相に説教をしたとされる以下のお言葉に全てが凝縮されていると思います。

「国防とは守るに足るだけで良し。軍部は常識に欠けている。地方幼年学校の増設は無意味である。社会から隔離した特殊教育を幼年学校で行なうから片寄った人間を作るのだ。この人間が陸軍の幹部となり政治にまで口を出すのだから言語道断、国家の災いである」参考:「ぶらり十兵衛の歴史探訪 様/高橋是清 」より

是清公の死後、軍備費は2倍近くに触れあがって皆腹を空かしながら原爆2発もくらって敗戦です。戦費増やしたなら是清公の時のように勝ってみろよと言いたいですが、実際には死屍累々の死者と無残な敗北、そして極貧しか残りませんでした。断易でいうなら官鬼(敵)に剋された「兄弟(けいてい)」の極みですね。

この言葉の「常識」というのが重要ですね。貴族あがりでない平民あがりの苦労人でありながら、日銀総裁にまでなり、数々の国難、戦費調達から恐慌からを日本を救った彼だからこそ説教できるお話しです。歴史や伝統を重んじつつ、現在の最新情報を持ち、様々な国々の様々人の意見を受け入れられる中庸さが必要だと考えます。実は、2.26事件の首謀者達も一枚岩でなく、首謀者の若者も大陸の部隊に編制前に今やらないとできない的な、悩める学徒のような、目先だけの発想で、且つ、大義名分を後付けするようなところも今までの研究で分かっています。何れにしても、何も考えず暗殺などというのは論外でしょう。まさに、是清公が指摘したバランスを欠いた人物が増えてくると内ゲバがおこり、常識、中庸を持った人も排除され最後は自らや組織にも死をもたらす。学ばなくてはいけませんね。

さて、失礼ですが、寺社仏閣系ばかりだと辛気臭くなりますので、気分を変えてランチは(参考 :フーターズ)さん。

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かなり久しぶりです。ここはアメリカのチェーンらしいですが女性スタッフがエアロビ的な短パン姿で配膳などしてくれる店です。夜が基本なんでしょうが、ランチもやっているそうなので。別に男性向けとかでなく、カップルや会社のランチできていそうな男女グループもそちこちにいます。

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向こうの方で女性がダンスを始めてバースデイコールを上げていると思いきや、今度はダンスタイムになったり、今昼ですけど?w
一人できた私などには「お味あいました?」などと、声がけしてくれたり、ダンス後にはイエイ!と手をたたいてくれたり笑えますw

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如何にもアメリカっぽいメニューばかりです。女性がバーコードタグをもっており、1日1個スタンプを押せば、ランチが無料になったりするとか。(でもちゃんとシステムができていて、違う女性のタグや同日に他店で押しても無効だとかw)

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因みに断易の哲学ですと、食べ物は「妻財(さいざい)」でありますし、この若い女性たちはモロ「妻財」です。「妻財」は文字の如く、女性、妻、また財を意味します。これに対する貧乏神が上にあげた「兄弟(けいてい)」ですから。

是清公もお堅いだけの人物というわけではく、森有礼公の書生をしているとは芸者遊びを覚えてしまったり、教員をやめて芸者の家に転がり込んでしまったり、相場詐欺にひっかかったり、ペルーの鉱山で詐欺にあったり、なんとも人間臭い方だったようですね。お金の気、妻財の気はこういう柔らかさも必要だと思います。

いやー何かいい気分w 日銀総裁さんの気と美女の気、これは妻財全開でしょう?w いい気分になって職場に戻りました。職場に戻って、お弁当食べてくたびれて寝ていた先輩に声がけして、美女の写真(+動画)をみせたら「何でお前一人だけ?来週は俺も!」と言っていましたw

引き続きよろしくお願いいたします。

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お世話になっております。

先日は、奇門遁甲の暦上、隠遁、陽遁として盤が変わる節目の甲子日に(参考:妙義山中之嶽神社)様の甲子祭に参加いたしました。しかし終わったのは早朝深夜の1時40分頃w 急いで富岡のビジネスホテルへ向かいました。

(参考:陽遁に変わる甲子日 満月に向かう月を仰ぎ「中之嶽神社大黒天」に御参拝)

しかし懲りない私は御祭り参加の余韻を味わいながらビールやハイボールなどを呑んで寝たのは4時ぐらいでしょうか。

チェックアウトぎりぎりまで寝て、起きたら快晴です。山々が綺麗です。

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途中、デニーズで朝食です。うわー安いハイボール(しかも500cc)のせいで二日酔い。睡眠不足もあり辛い~。でも飯を食べて珈琲を飲んだら少し楽になってきました。気を取り直し、富岡製糸場に向かいます。程なく到着し、駐車場から歩いていきます。町中に元々あるので、あちこちの市営を含めた駐車場を使います。二日酔いなので「市営無料、徒歩20分」とかNGw 一番近い所の有料に決定w

おお、雰囲気ありますね。見えてきました。

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門です。赤いポストが懐かしいです。

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おお。レンガ作り。屋根は瓦で、和洋折衷ですね。

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結構見どころあるようです。

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順路はまず国宝になっている東置繭所の1Fが展示室になっています。

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ここで基礎知識を得ることができます。まず驚くのは明治が始まって5年には開業開始していたことですね。

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(参考 公式サイト:世界遺産 富岡製糸場)様。団体予約状況や実際に行く場合に必要な情報はこちらがお勧めでしょう。

ブログ的には情報が細かく引用しやすいwiki様を使わせていただきます。

(参考 Wiki様:富岡製糸場)

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○概要

富岡製糸場(とみおかせいしじょう、Tomioka Silk Mill)は、群馬県富岡に設立された日本初の本格的な器械製糸の工場である。1872年(明治5年)の開業当時の繰糸所、繭倉庫などが現存している。日本の近代化だけでなく、絹産業の技術革新・交流などにも大きく貢献した工場であり、敷地を含む全体が国の史跡に、初期の建造物群が国宝および重要文化財に指定されている。また、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産として、2014年6月21日の第38回世界遺産委員会(ドーハ)で正式登録された。
時期によって「富岡製糸場」(1872年から)、「富岡製糸所」(1876年から)、「原富岡製糸所」(1902年から)、「株式会社富岡製糸所」(1938年から)、「片倉富岡製糸所」(1939年から)、「片倉工業株式会社富岡工場」(1946年から)とたびたび名称を変更している。史跡、国宝、重要文化財としての名称は「旧富岡製糸場」、世界遺産暫定リスト記載物件構成資産としての名称は「富岡製糸場」である。

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wiki様の注釈にありますが、機械工場としては小規模ながら「前橋製糸場」が最初らしいですが、このような大規模なのはこちらが初なようです。

何故、このような工場をここに作ったか?明治政府の近代化施策なんですね。

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○歴史(要旨)

日本は江戸時代末期に開国した際、生糸が主要な輸出品となっていたが、粗製濫造の横行によって国際的評価を落としていた。そのため、官営の器械製糸工場建設が計画されるようになる。富岡製糸場は1872年にフランスの技術を導入して設立された官営模範工場であり、器械製糸工場としては、当時世界最大級の規模を持っていた。そこに導入された日本の気候にも配慮した器械は後続の製糸工場にも取り入れられ、働いていた工女たちは各地で技術を伝えることに貢献した。
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当初は外国商人から工場建築の資金提供の申し出まであったらしいですが、外国資本はいれず、国策として器械製糸工場を建設すべきという意見が持ち上がり、1870年(明治3年)2月に器械製糸の官営模範工場建設が決定したようです。

明治維新の立役者たちの名前がでてきます。

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大隈重信、伊藤博文と渋沢栄一は官営の器械製糸場建設のため、フランス公使館通訳アルベール・シャルル・デュ・ブスケおよびエシュト・リリアンタール商会横浜支店長ガイゼンハイマー (F. Geisenheimer) に、いわゆるお雇い外国人として適任者を紹介するように要請したところ、エシュト・リリアンタール商会横浜支店に生糸検査人として勤務していたポール・ブリューナ (Paul Brunat) の名が挙がった。明治政府はブリューナが提出した詳細な「見込み書」の内容を吟味した上で、1870年(明治3年)6月に仮契約を結んだ。
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このブリューナさん。生糸検査人ということで、現在のIT、システム開発の世界でいったら、品質管理担当みたいな方ですよね。最もユーザに近い製品の完成状態に煩い方がこの工場の全ての構築を仕切るのです。この明治政府に提出したのは正に、見積書であり提案書ですね。

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ブリューナは仮契約後すぐに尾高惇忠らを伴って、長野県、群馬県、埼玉県などを視察し、製糸場建設予定地の選定に入った。そして、明治3年閏10月7日に民部大輔らと正式な雇用契約を取り交わすと、同月17日には富岡を建設地とすることを最終決定している。この決定は、周辺で養蚕業がさかんで繭の調達が容易であることや、建設予定地周辺の土質が悪く、農業には不向きな土地であること、水や石炭などの製糸に必要な資源の調達が可能であること、全町民が建設に同意したこと、元和年間に富岡を拓いた代官中野七蔵が代官屋敷の建設予定地として確保してあった土地が公有地として残されており、それを工場用地の一部に当てられることなど、様々な要件が考慮された結果であった。
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これ凄いですよね。単純に材料や人材調達がしやすいことだけでなく、環境面も考えていた。現在の企業もびっくりですし、正に、プロジェクトマネージャですよ。

全体模型です。

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ブリューナは製糸場の設計のために、横須賀製鉄所のお雇い外国人だったエドモン・オーギュスト・バスチャンに依頼し、設計図を作成させた。バスチャンは明治3年11月初旬に依頼を受けると、同年12月26日(1871年2月15日)に完成させた。彼が短期間のうちに主要建造物群の設計を完成させられた背景としては、木骨レンガ造の横須賀製鉄所を設計した際の経験を活かせたことが挙げられている。ブリューナは設計図の完成を踏まえ、翌月22日(1871年3月12日)に器械購入と技術者雇用のためにフランスに帰国した。ブリューナは建設予定地調査の折に、地元工女に在来の手法で糸を繰らせて日本的な特徴を把握しており、それを踏まえて製糸場用の器械は特別注文した。目的を達したブリューナはその年の内、すなわち明治4年11月8日(1871年12月19日)に妻らとともに再来日を果たすことになる。
他方で、ブリューナが日本を発ったのと同じ月には、尾高惇忠が日本側の責任者となって資材の調達に着手し、1871年(明治4年)3月には着工にこぎつけていた。建築資材のうち、石材、木材、レンガ、漆喰などは周辺地域で調達した。なお、レンガはまだ一般的な建材ではなく、明戸村(現埼玉県深谷市)からも瓦職人を呼び寄せ、良質の粘土を産する福島村(現甘楽町福島)に設置した窯で焼き上げた。

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さなぎになるまでにたくさんの成長過程があるようです。

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実際に生きている展示用の蚕です。

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1Fから見上げます。次は2Fにいってみましょう。

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これが国宝、東置繭所の2F、階段から見える壁面。

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そして、中も、ある種、荘厳ですね。

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国宝といっても芸術性だけでなく歴史、文化面の評価などがあるようです。

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これはいつかかれたのか?w シュールですねw

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設計士をバスチャンに依頼とか、自分のスキル範疇外をアウトソース(外部委託)するって当たり前と言えば当たり前ですが、やっぱり欧米列強って人材レベルからアジア、アフリカを抜きんでいたのですね。レンガとか瓦職人を集めて作らせたんですね。こういう建物、機械調達、人材調達、材料、養蚕のための蚕(かいこ)とか、どんだけ検討する必要があるのか。正にプロジェクトマネジメントですよ。日本的な風土、養蚕や働く人たちの特徴を踏まえ、製造工程や働く女工の背丈まで考えて機械をつくっていますからね。土地や風土に合わせてカスタマイズする。150年前ですよ?~ブリューナさんすげーな。

そして、これが工場の心臓部、エンジンです。

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復元ですね。でも、動かしてくれていて当時を彷彿させます。

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そして実際の工場内。

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うわあ。ここに女工哀史にあるような女性たちが働いていたのか。

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建設を進めることと並行し、明治5年(1872年)2月12日に政府から工女募集の布達が出された。しかし、「工女になると西洋人に生き血を飲まれる」などの根拠のない噂話が広まっていたことなどから、思うように集まらず、政府は生き血を取られるという話を打ち消すとともに、富岡製糸場の意義やそこで技術を習得した工女の重要性などを説く布告をたびたび出した。
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西洋人が血を飲むってドラキュラの話でも広がっていたのでしょうか?w ここは当時、ハイテク工場ですよ。ちょっと前までちょんまげ姿の人たちがうろついていた世界からいきなりですからね。官営時代は旧士族の娘さんなどが集まったようです。労働条件や福利厚生ですが、当時としては先進的な七曜制の導入と日曜休み、年末年始と夏期の10日ずつの休暇、1日7.5時間の労働で、食費・寮費・医療費などは製糸場持ち、制服も貸与されたそうです。また、能力給になっていて、8段階で階級がありスキルによって給与が上がる仕組みだったようです。今の労働形態の基本ができていたようです。こういう事実を知ると、戦前のものは全て強制労働なイメージがありますが、実態は全く違いますね。

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工女たちはブリューナがフランスから連れてきたフランス人教婦たちから製糸技術を学び、1873年5月には尾高勇ら一等工女の手になる生糸がウィーン万国博覧会で「二等進歩賞牌」を受賞した。これは品質面の評価よりも、近代化されたことに対する評価だったという指摘もあるが、開業間もない富岡製糸場の評価を高めたことに変わりはなく、リヨンやミラノの絹織物に富岡製の生糸が使われることにつながったとされる。工女たちは、後に日本全国に建設された製糸工場に繰糸の方法を伝授する役割も果たした。和田英や春日蝶が1874年7月に帰郷したのも、そうした工場の一つである民営の西条製糸場(のちの六工社)で指導に当たるためであった。
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そして政府、外国人技術者、日本側管理者、様々な業者の方々だけでなく、主人公である女工の方々の真摯な努力によって、生糸がウィーン万国博覧会で「二等進歩賞牌」を受賞するに至ります。フランス、リヨンやミラノの絹織物に富岡製の生糸が使われることにつながる大事なエポックですが、日本の生糸をを使ってくれたフランスの方々には大きな恩義がありますね。
この後、日本は様々な諸国、イギリスやアメリカともこのような資本提携関係が様々な産業で行われますが、初めて得た縁を忘れる、ギブアンドテイクを忘れて孤立して破滅の道に邁進していきます。運命学での四苦八苦の究極の一つは「孤独」を示しておりますので、日本が何故そんなことになったのか、別の記事で明らかにしてみたいですね。

さて話を戻しますが、こんな寮で生活をされていたのですね。

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こちらがブリューナさんらがいた建物ですかね。

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ブリューナさんたち、お雇い外国人の方々は3年程で契約を終え帰国されたようです。後は日本人達だけで運営していくことになります。この基盤を作ってくれたブリューナさんたちや日本側のスタッフに感謝ですね。

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この後は、三井家、つまり三井財閥に払い下げ、つまり民営化されていきます。民間の資本家が育つことは資本主義国家としては必要不可欠なことです。経営資本は変遷していきます。この後、第一次世界大戦や世界恐慌時代には、原合名会社時代を迎え、その後、日中戦争や満州事変が起きたあたりに筆頭株主だった片倉製糸紡績会社が後を継ぎます。実は三井家の入札時に競り負けたのが片倉家でした。前任の原さんとしても「この由緒ある工場を永遠に存置せしむる」資本家は片倉さんだけだったようです。しかし戦争中も爆撃などに合わなかったのが幸いです。その後、戦後の1987年(昭和62年)まで操業を続けられていました。

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片倉工業は富岡工場(旧富岡製糸場)を閉業した後も一般向けの公開をせず、「売らない、貸さない、壊さない」の方針を堅持し、維持と管理に専念した。富岡製糸場は巨大さゆえに固定資産税だけで年間2000万円、その他の維持・管理費用も含めると最高で1年間に1億円以上かかったこともあるとされる。また、片倉は修復工事をするにしても、コストを抑えることよりも、当時の工法で復原することにこだわったという。こうした片倉の取り組みがあったればこそ、富岡製糸場が良好な保存状態で保たれてきたとして、片倉の貢献はしばしば非常に高く評価されている。

富岡製糸場の操業停止を受けて、市民レベルでもその価値を伝えていこうとする学習会「富岡製糸場を愛する会」が、当初は細々としたものではあったが、1988年に発足した。この団体は継続的に活動しており、特に活発な市民団体とされている。
富岡市の取り組みでは今井清二郎の市長在任中(1995年 - 2007年)が、ひとつの大きな画期となっている。今井は市長就任前から富岡製糸場に強い関心を抱いており、市長になると片倉工業との交渉を開始した。そんな中、2003年(平成15年)に群馬県知事小寺弘之が富岡製糸場について、「ユネスコ世界遺産登録するためのプロジェクト」を公表した。翌年12月には県知事、市長、片倉工業社長の三者での合意が成立し、富岡製糸場が富岡市に寄贈されることとなった(土地は有償で売却、建物は無償譲渡)。2005年(平成17年)9月30日付けで富岡市に寄贈され、翌日からは市(富岡製糸場課)が管理を行っている。
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この片倉工業さんの損得抜きにしたこの経営スタンス。歴史を背負ってきた誇り。素晴らしい!昭和までの資本家にはこんな誇りやスピリッツが感じられますよね。今の日本の、シャープ、東芝、特に神戸製鋼などの品質偽装などみてどうですかね。一口に近代というと太平洋戦争があるため、避けがちですが、今一度、今の日本を作ってきたものに触れてみる必要がある気がしますね。正に温故知新でしょうか。

工場裏手の風景。この山々に囲まれたこの大地のこの工場を、皆が歩んできた歴史を守るって感じですよね。

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いやー充実でした。知らないことばかりでした。知的好奇心が気が付けば二日酔いを吹き飛ばしていましたw

どちらかというと近代歴史建造物より古代のが好きなのですが、寧ろ、現在に直結する近代の実物に触れるって大切でなことですね。しかもこの土地は嫌な感じはありませんでした。清々しさのみ。

さて、ぼちぼち、あがります。高速を抜けていくと来るときは夜でしたので分かりませんでしが、山々はすっかり紅葉から枯れ始めていました。でもこれはこれで味わいがありますね。

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気持ち悪さはとれたけど、だるいです。温泉に行こうっと。予定では妙義山麓のもみじの湯を考えていましたが、帰宅方向の逆方向に30キロ戻るのが辛いし、帰宅後、霊符・呪符を急ぎ作成せねばならず、温泉はいつもの地元、栃木市の(参考:栃木温泉 湯楽の里)様へ。

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ずーっと露天の椅子の形の半身浴できるところで寝てましたw お陰ですっきり。

帰宅後は、家族に鍋つくりをお願いし、私は神殿に籠り、霊符・呪符の作成です。まずは1時間弱、在家次第の勤行、破邪のため荒神経はいつもいれます。今回は甲子日なので大黒天神経を入れ、後は諸真言。その後、一個一個、小野先生伝授の作法で書き上げていきます。符の本体を書くのは1時間ぐらいでしょうか。でも、私の符は更に、お守りとして包んで更に裏側にも結界とパワーアップのための符を書いているのでこれまた時間がかかります。お線香も高級な奴を3つの香炉で燃やしながらやっており、蝋燭切れたり、お線香が切れたりそのたびに補給しつつ、真言唱えながら符を香炉にかざしながらやっていきます。最後の方は結界用の符など覚えてしまい勝手に手が動いていました。無我夢中w 作成は8部(1部、2つがインプラントされている奴もあり、全て異なる呪符)。19時30分から初めて22時30分に完了。燃え尽きた。。。。。w

終わった後は?おお!これはラーメン山頭火プロデュースの辛みそ鍋!ウマー!生き返りました!

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次の日は出社ですから新幹線で東京に入って、現場近くの郵便局で郵送しつつ、マニュアルはいつものワードで作成して、PDF化してお客様へメール送信です。このマニュアルも使い方、補足説明などがあり、中々ですよ。

という感じで、隠遁・陽遁、甲子ツアーと世界遺産、富岡製糸場見学の旅は完了です!長文、ご精読どうもでした。

引き続きよろしくお願いします。

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お世話になっております。

昨日はやっと奇門遁甲の吉方が巡ってきておりまして、日盤は、北西は丙己(緑野普照:吉)、但し杜門(凶)w、北は(乾木列炎:大吉)、景門(吉)、東北は戊乙(巨岩梅花:吉)、但し死門(大凶)という状況で使えそうな盤が到来の模様。
続いて時盤ですが、北西なら辰時の甲甲、巳時なら北東の丁庚、北の丙戊あたり。私は午の刻の北、乙戊(鮮花名瓶:大吉)、景門(吉)を使います。

途中、先祖の墓陵の追加整備に参ります。前回やった高級?砂利を30キロ追加と、墓石の接合部で少し削れているところの補強など。故人の縁日も絡むので丁度良いかと。先祖供養、宗教云々抜きで必要みたいですね。もしも、ご無沙汰でしたら、まずは行ってみるというのも大切かと。

(参考:家系は繰り返す、家運上昇の秘訣とは? 参考図書「家系は語る―先祖の願いを子孫につなぐ女性の役割」 )

さてさて、墓陵に到着し砂利を展開。砂利も種類があり、やばい砂利でないか、良く選んで展開しております。(小野先生の呪術セミナー内容ですねw)墓陵入り口より奥が風水でいう座山に当たりますので少し高く傾斜をつけて、気持ち手前になだらかに低くなるように敷き詰めます。これも風水の 巒頭(らんとう)、形、形状での考え方(命卜相の相学)です。除草剤などは、墓陵内の土地が枯れるためまきません。とはいっても、墓陵は大概、山に近いところにあり、すぐに雑草の種子が飛んできて雑草が生えますので、マメにお参りに来て手入れすること、砂利を敷きしめ雑草が根付かないようにすることも大切かと思います。接合部の補強なども行い。ばっちり!心なしか、日が急に照りはじめ、暑くなります。凄い熱を感じます。香を焚き、更に、阿闍梨様から伝授を受けた勤行次第を家族で唱えます。清々しさと熱さが胸辺りに発生します。仏さんも喜ばれているでしょう。

さて、次は、矢板方面に向かいます。途中の山も色づいてすっかり秋も深まりましたね。

前回、笠間の愛宕山、愛宕神社に伺った際、宮司さんに「笠間は宇都宮氏が攻めてきて統治した」という話が頭の片隅にありました。

(参考:先日の愛宕神社、金毘羅神社のご縁か、岩間(笠間)愛宕山で将軍地蔵、仙境異聞に出会う)

また、先日の栃木県立博物館様の企画展「中世 宇都宮氏 頼朝 尊氏 秀吉 を支えた名族」展で矢板の城、川崎城との関りを見ていたので、こっちの資料館ってないのかな?と気になっておりました。

(参考:「中世宇都宮氏 頼朝・尊氏・秀吉を支えた名族」)

ほどなく(参考:矢板市立郷土資料館)様に到着です。元々、矢板市片岡地内にあったものを旧上伊佐野小学校(平成21年3月に泉小学校に統合)の校舎を活用し、平成24年4月にリニューアルオープンしたそうです。

中々しっかりした建物です。廃校といっても、ちょっと前ですしね。

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企画展は写真展をされていました。写真を堪能させていただいた後は、常設展示へ。小学校の廊下、何か懐かしいですね。

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結構な展示が並びます。

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市の発掘調査など、資料も豊富にあるようです。

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矢板市のご当地キャラクター「ともなりくん」の元ネタである(参考 Wiki様:塩谷朝業(しおのやともなり))公のお話しが興味深かったです。

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塩谷 朝業(しおのや ともなり)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・御家人・歌人。宇都宮成綱の子。母は平忠正の長子の新院蔵人長盛(新院は崇徳天皇の事)の娘。実父と養父の名を取って朝業と名乗る。下野宇都宮氏の生まれだが、当代の清和源氏流塩谷氏当主朝義に子が無かったことから、朝義の娘婿となり塩谷氏の名跡を継ぐ。系図では、子に塩谷親朝、笠間時朝、26歳で出家して親鸞の弟子となった塩谷朝貞(賢快・肥前法師)、三人の男子の間に一人ずつ娘(第二子、第四子)がいる。
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代々、源氏に仕え、剣術・弓・馬術に優れ、宇都宮花壇を創設される程、教養も高かった方のようですが、終生、信心深い方だったようですね。特に改めてびっくりしたのが、息子さんが(参考 Wiki様:笠間時朝)公だったということですね。

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塩谷朝業の次男として生まれる。宇都宮頼綱の養子となり常陸国笠間に入って笠間氏を名乗り、16歳の頃より約16年の歳月をかけて、嘉禎元年(1235年)、佐白山に笠間城を築いて居城とする。天福元年(1233年)頃、鎌倉幕府に出仕し始めると頭角を現し、将軍の公式行事に二十数回も出ており(吾妻鏡)、仁治元年(1240年)には検非違使に任命され、仁治3年(1242年)の後嵯峨天皇即位の大嘗会には、供奉役人として上京奉仕している。さらに、父朝業が没した宝治2年(1248年)12月17日には、本家である兄の塩谷親朝を上回る従五位上(塩谷氏は従五位下)長門守という官位官職に任じられている。時朝は、笠間十八代の基礎を作り上げ、文永2年(1265年)2月9日、62歳で没する。戒名は、晏翁海公大禅安門。

○人物像
時朝は、身の丈が当時としては高く178cmもあり、その恵まれた体格から武勇に優れていたが、文化人としても名が高く、宇都宮新和歌集には、頼綱(蓮生)に次ぐ51首もの歌が収録されており、時朝の詩集である『前長門守時朝入京田舎打聞集』の写本が現在、宮内庁書陵部に所蔵されている。

○文化的業績
時朝は、建長5年(1253年)7月と文永元年(1264年)8月10日に京都蓮華王院(三十三間堂)に千手観音(120号像・169号像)を寄進している。1,001体ある三十三間堂の千手観音立像の中で、鎌倉時代のもので寄進者が確実に判明しているのは時朝が寄進したこの2体だけである。宝治元年(1247年)4月に石寺弥勒堂弥勒菩薩立像、建長4年(1252年)7月[5]には楞厳寺千手観音立像、翌建長5年(1253年)7月には岩谷寺薬師如来立像が地元笠間のそれぞれの寺に寄進され、現在、それぞれ国の重要文化財に指定されている。建長7年(1255年)11月には、鹿島神宮に唐本一切経を奉納寄進し、日光輪王寺の旧三仏堂の日光三社権現像の内、千手観音像を寄進した。また、山形県寒河江市の慈恩寺には弘長3年(1263年)常陸国小山寺(富谷観音)旦那笠間時朝銘のある木造大日如来坐像が現存する。自身は出家得度の道を選ばなかったが、時朝の特に仏教における文化的業績は大きかった。
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うお!息子さんの時朝公も更に凄いですね。文武両道に加え、三十三間堂の千手観音立像の中で、鎌倉時代のもので寄進者が確実に判明しているのは時朝公が寄進したこの2体だけだとか、日光山の三仏堂の千手観音を寄与とは凄い。なるほど!愛宕神社の宮司様が仰ったことはこれでしたか!こうした背景もあり矢板市と笠間市が姉妹都市になっていたことも今更ですが知ったのでした。

中々充実でした。やはり郷土資料館、侮りがたしw

続いて、結構な山道を抜け(参考 Wiki様:寺山観音寺)様へ。何となく、先ほど、祈った仏さん達と共にを観音様にお連れしたいなあと思っておりまして。。。。

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寺山観音寺(てらやまかんのんじ)は、栃木県矢板市長井の寺山地区にある真言宗智山派の寺院。高原山の中腹標高450m前後の比較的高い場所に位置する。山号は与楽山、院号は大悲心院。詳名は与楽山 大悲心院 観音寺と言い、寺山観音寺は通称である。本尊は千手観世音菩薩(国の重要文化財)。
寺伝によれば、高原山(最高峰は釈迦岳、1,795m)の一峰・剣ヶ峰(1,540m)の頂上近くに724年 (神亀元年)、 聖武天皇の勅願により行基が建てた法楽寺が始まりであるという。その後法楽寺は803年(延暦22年)雷火により焼失するが、この際、観音堂は焼け残り本尊は安泰であったという。806年(大同元年)、平城天皇の勅願により、徳一が本尊を現在の地に移し、七堂伽藍を建立し現在の寺山観音寺に至るという。本尊は秘仏であり、60年に1回、甲子年の旧暦9月10日より7日間のみ開帳される。
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銀杏と共に風情がありますね。

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お線香を焚き、吉方なので、煙を体に浴びせていきます。続いて、護摩の願い薪があるので、先祖供養と書き、本殿で軽く拝みます。

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拝んでいると猫が寄ってきました。移動すると適度な距離でついてくる、人懐っこい猫です。

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百観音のお砂場があるので、こちらも靴を脱いでいただきます。これで百観音で拝んだ功徳があるとか。

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銀杏が見事ですね。

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よく見ると、銀杏の前に「幽霊の腰掛け石」なるものが。お話によると、昔の人は亡くなると幽霊になってお寺の観音様の中に入るといわれていたそうです。この岩に座って身なりを整え、心沈めてから観音様の中に入っていったというお話しがあるそうです。おお!これは墓陵整備していた時のイメージそのものですね。これはありがたや、です。観音様、仏さん達よろしくです。

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これで仏さん達も観音様に導かれるでしょうw 時が止まっているような空間です。

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本殿右側を見ますと出羽三山の石柱があり、羽黒山神社の話もありますから、関係あるんだろうなとは思っておりました。そこに丁度、すれ違った掃除をしていたご老人が急に話しかけてきました。ちょっとびっくりですが。

ご老人「西の伊勢参り、東の奥参りといいまして、古くより、西の伊勢神宮に詣でることを「西の伊勢参り」、東の出羽三山に詣でることを「東の奥参り」と称し、双方を詣でることは重要な人生儀礼のひとつとされておりました。このお寺は真北にある出羽三山のお力を中継して宇都宮に伝えるところなのです。風水的にみてもです」

何か私が何となく考えていたことを言い出すので面白かったですが、こういうスポットには天魔外道といっていろんな方やものwがいますからね。にこやかに相手をしながら淡々と。

(参考:古地図が物語る山川の真の形状と歴史的拠点の一致)

ご老人「更にこのお寺の七不思議知っておられますか?」

私「いえ、全然です」(といいつつ、実は私、この寺は初めてではなく、甲子日に大黒天祈祷をお願いできるので、2,3回お願いしたことはありました)

ご老人「当山二七フシギ(不思議)アリ。第一霊湯、第二牛石、第三白土、第四赤根土、第五青ノリ、第六盗賊不入、第七バン字水夏冬絶エズ、是ハ寺山七不思議ト申シツタワルナリ。 とありまして、ここから湧き出る霊水は万病に効くそうで、その水の温泉が近くの寺山鉱泉なんです。お寺も重要文化財が多く、本殿の千手観音や二十八部衆も素晴らしいですよ。このあたりの自然は温泉も含め素晴らしく、歴史も深い場所なので是非、知らない方に紹介してくださいね。」

私「了解ですw まだ寺山鉱泉行ったことがなくて。。。今回も城の湯予定ですしw 本殿は開くことがありますか?」

ご老人「正月三が日はあきますよ。秘仏は60年毎の甲子の年に一回なので、かなり先になりますが」

お寺の方かと思ったら、付近の住人の方でこの辺の掃除や植物の手入れなど自発的にされている方のようでした。軽く歓談しお別れしました。

帰り道沿いの道は、リンゴの産地が広がっています。

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こちらで買っていきました。試食もいただいたら瑞々しくうまかったです。

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〆は(参考:矢板市 城の湯 やすらぎの里)さんで、熱めの風呂で邪気を抜きつつ、ヘリで寝ておりました。ちょっと入って熱くなったら、ヘリで寝る、の繰り返し。正に極楽ですw

本当の〆は帰宅後で軽く晩酌でした。

引き続きよろしくお願いいたします。

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お世話になっております。

久し振りに進撃の巨人の動画などを見てしまいました。

(参考 youtube様:Shingeki No Kyojin - Una nueva esperanza (Sub Español) ''HD'')



エレンの死(実は生きているのですが)に生きる意味を失い、でもぎりぎりの刹那で体が生きようとあがき続ける。生きる意味なんてもうどこにもないのに、何が私を。。。。。エレンの声が聞こえる。

「戦うんだよ!戦え!戦え!」

ミカサは絶望を超え、「ごめんなさい、エレン。私は二度と諦めない。死んでしまったらもうあなたを思い出すこともできない。だから何としてでも勝つ。何としてでも生きる!」と折れた剣を持ち返したのでした。

戦え!というエレンの声。何故か私は徳川家康公の人生を思い出してしまいましたw

現在の東京、江戸を作られた徳川家康公はまさに波乱の人生でした。絶望の狭間を潜り抜ける人生と言っても過言ではないでしょう。その御旗、「厭離穢土欣求浄土」は、「この娑婆世界を「穢れた国土」(穢国)として、それを厭い離れるという意味であり、阿弥陀如来の極楽世界は清浄な国土であるから、そこへの往生を切望するという意味」だそうです。

永禄3年5月19日(1560年6月12日)、三河遠江駿河の三か国を支配した今川義元公は、4万とも5万とも言われる大軍で京都へ上洛を開始します。その今川軍団の中に、人質として育てられ義元公の娘と結婚させられていた家康公がいました。軍団の先鋒で活躍しておりましたが、そんな中、神懸った織田信長公によって田楽桶狭間で打ち取られてしまったのです。今まで信じてきた義理の父でもある義元と大軍団の瓦解。戦場は一瞬にして風が変わり、今川軍は総崩れになります。

絶望の中、松平元康(後の徳川家康)は、桶狭間の戦いで今川義元討死の後、菩提寺である三河国大樹寺へと逃げ隠れます。前途を悲観した元康は松平家の墓前で自害を試みるが、その時13代住職の登誉が「厭離穢土欣求浄土」と説き、切腹を思いとどまらせたと言われます。すなわち、戦国の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをしているから、国土が穢れきっている。その穢土を厭い離れ、永遠に平和な浄土をねがい求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成すとの意味だそうです。

この後、死を思いとどまった家康公は、運命の岡崎城へと向かいます。少年時代に織田家に人質であったよしみもあり、すぐに使者を出し同盟を図ったのです。こうして、戦国大名への独立の機会を掴んだのでした。

次に来た、絶中生の瞬間は、桶狭間の戦い後、美濃、現在の岐阜県に勢力を伸ばし、7万の大軍で京都に足利義明を奉じて上洛。上洛の宣告に応じなかった越前の朝倉義景を攻めるために、越前に向かいますが、同盟者の浅井が裏切ります。後方を抑えられ、逃げ道無し。この状況下で、木下藤吉郎後の秀吉公と共に殿軍(撤退時の最後尾を抑える最悪のポジション)とともに、徳川軍は凌いだのでした。

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次は、あの戦国最強といわれた武田信玄公の上洛軍との戦い。三方ヶ原の戦いで全滅しますが、信玄公の病死で九死に一生を得ます。

次は、信長公が天下統一寸前での本能寺の変。饗応にきていた家康公は明智軍に追われ、伊賀を超えてこれも九死に一生を得ます。

次は、秀吉公。明智を倒して信長公に変わって天下を抑え、今度は家康公に牙をむきます。小牧長久手の戦いは圧倒的な戦力で秀吉公がきますが、たくさんの砦を設けてこれを撃退します。この時幸運にも大地震が遅い、秀吉公は和議を結びます。

次は、小田原攻めの後の論功行賞で与えられた土地が、絶望の大地、江戸に移れとの秀吉公からの宣告。ここでも家康公は水だらけの泥だらけの大地を開墾し、坂東太郎と言われた利根川の流れを変え(利根川東遷事業)、ついには極楽の土地に変えてしまいます。つまり、水が引いたため肥沃な大地が完成し、日本最大の石高を手にするのです。現代の東京都市研究家も、家康公がこの土地の基本を作ってくれたことを高く評価しています。

最期は、関ケ原の戦いでしょう。これも、秀忠公率いる本隊3万が間に合わなかったのに勝ってしまいます。

どうでしょう?皆さんの絶望は家康公の絶望より酷いでしょうか?多分、これほど酷い絶望ってのは中々ないと思います。つまり、我々も絶望の刹那、生きて戦う刹那を楽しんでも良いのではないかと思ったりします。

先日の座間の自殺者志願の方々を殺戮した事件は最強の殺人者を恐怖しつつも、現在日本の絶望的な闇をさらけ出しているようにも思えます。今、心が弱って、誰もいなくて、絶望している人がいたら、その人に、伝えたいです。

「戦え!戦うんだよ!戦え!」と。

ぎりぎりの刹那でも、あがき、立ち上がることができる。その刹那、絶の中に生きる道があるように思えます。
ふと、一瞬気付いてほしいです。生きようとしている自分の肉体や今生きていることを。

運命学の十二運、「 長生、沐浴、冠帯、臨官(建禄)、帝旺、衰、病、死、墓、絶、胎、養」でいえば、絶の中に、新たな生命ならぬ、あらたな運が生まれ(胎)いるのです。

きっと、あなたも絶中生を得て、絶望から反転する人生を掴むことができるでしょう。

引き続きよろしくお願いいたします。

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