お世話になっております。

もう数年前でしょうか。お陰様で母の癌も収まりほっとしておりますが、まだ小康状態の時、大きめの手術に入る前に高野山に行ってみるかと母が言ってくれました。なかなか、こういうのを付き合ってくれるのっていろいろ邪魔が入りタイミングって難しいものだと思います。

ここで行くべきだ!と思い、その時は結縁灌頂の時期ではありませんが、生まれ出て作ってしまった業の初期化ができる?という(参考:御受戒)を受けるだけでも相当な価値があります。

以下、ちょっと長いですが、素晴らしい説明なので引用させていただきます。

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〇授戒(高野山金剛峰寺 様/体験/受戒)より

そもそも、戒とはなんでしょうか。文字を見れば、いましめという文字が使われているので、普通に戒律という言葉を考えれば、してはいけないこと、タブー、ルール。そういった印象を受ける方は多いと思います。しかし密教の世界で説かれる「戒(戒律)」は単純にしてはいけないこと、という戒めの意味だけに留まりません。
もともと戒律ということばは、戒と律という二つの規範を総称していう言い方です。このうち、「してはいけないこと」としてルールをまとめたものが「律」です。仏典の全てを総称する言い方に三蔵(さんぞう)ということばがあります。この三蔵に通じたえらいお坊さんを指して「三蔵法師」というわけです。この三蔵は経蔵、律蔵、論蔵の三つから成っています。つまりいわゆる仏典とされるものは大きく分けて、さとりへの道を説くいわゆるお経(経蔵)とさとりへ歩むものが守るべき規範(律蔵)、そして仏の教えを先人達が詳しく論じた足跡(論蔵)の三種類があるということです。この一つに数えられているほど、律というものは古代より教団成立の上で欠かすことの出来ない規範であり、その時代時代の文化的背景を受けて、仏陀によって、また先人達によって編集されてきた「決まりごと」であると言えます。

それに対して、「戒」は決まりごとというよりもむしろ「自らのこころが本来的に持っている自発的な働き」のことをいいます。すこしわかりにくいですが、例えば有名な「戒」に「不殺生戒」というものがあります。生き物を殺してはいけない、とする戒ですが、言葉通り「殺生してはいけない」という「ルール」と捉えると戒の教えの本質が見えてきません。
我々は、決まりとして決まっているから、いのちを奪うことをしないのでしょうか。生きる上からはやむを得ない部分も少なからずありますが、密教では我々のこころの本質的な部分に、他者の生命を奪うよりも、他者のいのちを生かしたほうが我々自身が心地良い、嬉しい、という「こころ」が備わっていると見ます。その本質的な「自己のこころ」、言い換えれば自分の中にある「仏と同質の部分」、もっと簡単に言えば「ほとけごころ」。そういうものが自分の中に、また多くの人々の中に本来備わっていることに気がつく。気がついて自覚して、その自分の中の本当の声を大切にする。そういう在り方を説いているのが「戒」の教えではないでしょうか。ですから、先にも触れたように、「戒」の教え、「戒」のこころとは、そのままにほとけの心の在り方でもあるわけです。
法話を聞いて「ありがたいな」と感じるだけでは、一時の安らぎを得られても根本的な解決にはなりません。お大師さまは「み仏の戒めを大切にすることによって、人の体は潤いあるものになる。それはあたかも諸天の飲み物といわれる甘露を飲むことによって、身にまとわりついた病が除かれるようなものである」とお諭しくださっています。大切なことは、知ることで満足せずに、知って実践することです。
高野山上にある高野山大師教会では毎日阿闍梨さまによって「菩薩十善戒」のお授けがなされており、「十箇条の戒め」のお授けに参加していただけます。この素晴らしい仏の教えを「ただ聞く」だけではなく、実際の生活に活用し、実践していただくことで、皆様が自らや周囲の人を含め、多くのいのちを大切に「生かして」いただければ、これに勝る喜びはありません。

〇菩薩十善戒

・不殺生(ふせっしょう)
「生きとし生けるものを殺さない」ということですが、すべての生けるものはみな同じ命を持ち、同じ命を皆が分け合っているのだということです。その生命をより良く生かしていこうと教えます。一方でわたしたちは日々、多くの生きものの命を戴かなければ生きていけない存在です。その事実をしっかり見つめなめればなりません。

・不偸盗(ふちゅうとう)
「盗んではいけない」という戒めですが、本質的には、奪って誰かを悲しませるより、むしろ与えて喜んで貰った方が、我々の心もまた満ち足りるのだ、という菩薩の精神を表わしています。世間は物質的には様々なもので満ちあふれています。大量生産・大量消費といわれる時代は、私たちの欲望を様々に刺激します。いつしか本当の「こころ」を見失えば他人のものに手を付けても、表面的にはこころは痛まなくなるのかもしれません。しかしそれは本当に私たちが望んでいることでしょうか。また、「もの」だけではなく、それぞれの持ち味、長所などの徳分も含め、奪ったり奪われたりしてはいけないことを示しています。

・不邪淫(ふじゃいん)
「倫理を失った関係を持ってはいけない」ということです。売春、買春、援助交際に出会い系サイト・・・。最近は後先を考えないで淫らな行為に走る人が多く、しかも低年齢層まで浸透しつつあります。しかし、男女の間柄で「こころ」を見失えば、それは単なる肉欲だけの関係に堕することになります。相手への気づかいや思いやりのない関係は、最終的にお互いを不幸にしてしまいます。

・不妄語(ふもうご)
「嘘をついてはいけない」という戒として、仏教の戒めの代表のように広く知られています。これも同様に嘘をついて人を悲しませるより、暖かな言葉を人に伝えたほうが自分のこころもずっと気持ちが良い、ということを本質的に我々は知っているということです。世の中の色々なところで嘘、偽りがはびこっています。驚くことに、「だまされるほうが悪い」と堂々とひらき直る人もいます。一度だけと思った嘘は次々と次の嘘を呼び、嘘は積み重なっていくものです。一つの嘘で信用は崩れ去り、取り戻すには大変な時間と努力が必要となることもあります。

以上の四つは「淫・盗・殺・妄」という一括りにされ、ことさら重要な位置におかれています。

・不綺語(ふきご)
「お世辞など、無益なことを言わない」ということです。本質に反して見た目だけ飾り立てた言葉では、本当のこころの繋がりは得られません。ことばを飾れば飾るほど、自分の真意からは遠く外れ、まごころも相手に伝わりませんし、そのような不誠実な言葉は、実際のところ自らも相手も同じく、おとしめるものとなります。

・不悪口(ふあっく)
「悪罵しない」ということです。日本語はとても美しい言葉なのですが、相手を不快にさせる言葉を遣えば、瞬く間にいさかいが生じます。逆に優しい言葉を遣えば、周りを和ませてくれます。自らのこころに確かにある、ほとけごころの声に耳を澄ませば、本当に自分が相手に伝えたい言葉が、そのような不快な言葉だけなのかお分かりになるのでは無いでしょうか。

・不両舌(ふりょうぜつ)
「二枚舌を使わない」ということです。一方に都合の良いことを云い、またもう一方にもいい顔をして食い違うことばかり平気で言えば、いつしか信用も失います。場合によっては相手にも損害を与えかねません。顔色をうかがってその場を取り繕うのでは無く、本当のこころから出る言葉、「おもいやりのある言葉」を話そうと心がけるべきです。

・不慳貪(ふけんどん)
「むさぼらない」ということです。物質社会に生きるわたしたちは、生活を便利に、快適にしてくれる「物」によって豊かさを享受しています。しかし、逆にいえば物が溢れ、物に執着し、そういった物無しには豊かさを実感できないともいえるのではないでしょうか。幸せの価値を金銭で測り「お金さえあれば幸せに暮らせる」と多くの人が勘違いしている現代、今、何が求められているのか深く考える必要があります。

・不瞋恚(ふしんに)
「怒らない」ということです。ムカツいたり、キレたり、暴力をふるったり・・・。その怒りはどこからくるのでしょうか。悪いのは本当に相手だけなのでしょうか。一時の怒りに我を忘れると、取り返しのつかない事件を起こしかねません。怒るより怒らない方がこころ穏やかに幸福なのは誰にでも分ることです。しかし時に人は怒りに自らを見失い、本当のこころの声、優しいほとけごころの声を忘れてしまいがちです。本当に大切なものを失う前に、自分の心の深いところにあるおだやかさを思い出して欲しいと思います。

・不邪見(ふじゃけん)
「間違ったものの見方」ということです。常に自分は偉く正しいけれど、「周りの奴は馬鹿だ」と思っている人がいます。そして悪いことは全て「馬鹿な周囲」のせいになっているわけですから、恨みだけは人一倍です。皆さんの周りにも一人や二人、こんな人が見受けられるかもしれません。あるいは自分自身が自分を信じる余りに全て周囲のひとのせいにしてしまっていることは無いでしょうか。落ち着いてものごとを正しく見極める目を持ちたいものです。

以上のように、人が生きていく中で非常に重要な事柄が「戒め」というかたちをとって表現されています。内容は至極道徳的なことばかりなので「当たり前のことばかり」という言葉が返ってきそうです。ところが、これらの一つ一つを守ろうとすることは非常に大変です。お大師さまの言葉には、「戒をたもつ(持戒)」という言い方はありますが、「戒を守る(守戒)」という言い方はありません。戒は上にも述べたように、単なる決まりごとではなく、ほとけのこころを表現したものなのですから、決まりごとのように盲目的にただ守ろうとするのではなく、自らのこころにほとけと同じ性質のものがあることに気がついて、その状態を持する(たもつ)ことが大切なのです。表面的に決まりごとを犯さなければ良い、というものではなく、その行いをしている自分自身のこころがどうであるかが大切なところです。簡単なことではないかもしれません。しかし、常に心のどこかでこれらの戒めを思うことできっと皆さんにも変化が現れます。戒の実践とは、自分のなかに確かにある「ほとけさま」を育むことなのです。

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(参考:未戒で死ぬのは止めた方がいいらしいっす)
(参考:我が家の守護神、立里荒神とのご縁)
(参考:春の高野山、胎蔵界結縁灌頂、嶽弁天、天河弁財天、龍泉寺、そして吉野山・蔵王堂の思い出)

思い立ったが吉日!早速、宿坊、飛行機、レンタカーなどを予約し、出撃です。

しかし、当日、朝、成田空港に向かわなくてはいけないのに、母が気分がすぐれず中々家をでられません。このように邪魔が入るものです。真面目な話、私は小さい声で、阿闍梨から賜った御大師ご宝号、光明真言を唱え、なんとか家をでれるように祈りました。一転して、気分がかわったようで、出撃です。しかし、このような邪魔はこのあと、何度も襲ってくるとは思っておりませんでしたが。

成田空港にぎりぎり到着です。アナウンスで名前を呼ばれました、危なかった。

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1時間程度で関西国際空港に到着です。レンタカーを借りて出撃です。

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途中、お約束の(参考:丹生都比売神社)様に立ち寄ります。病気治癒を祈ります。

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次に高野山に入りました。今回も温泉がある(参考:福智院)さまです。ちょっと買い物です。母用の輪袈裟と数珠を買います。お寺に戻ります。

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精進料理をいただきます。精進とはいえ、ゴージャス。うまいっす。

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食後、写経をしました。これも病気平癒を祈っての写経です。腕に着けるタイプの木念誦をもらいましたので、これも母に。

温泉に入り明日に備えます。

翌朝、私だけ4時ぐらいに起きて、お約束の立里荒神様に向かいます。龍神スカイラインの奥にある標高1100メートルに奥の院がある天空の社です。ここで、阿闍梨に賜った在家次第と荒神供をお勤めさせていただき、病気平癒を祈りたいと思いまして。

着きました、荘厳な気に満ちてます。夜明け前です。

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いくつもの鳥居を歩いていきます。

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頂上の本殿です。早速、在家次第、荒神経、諸真言などをお勤めを。本当に心が空白になり、少し暖かいような感じと、自分を取り巻く風景と自分が一体になったような不思議な感覚に囚われます。この時間です、誰もいません。

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遠く、熊野の方角を。このブログの扉の写真はこの時撮影したものです。

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さて、素早く高野山に戻ってきて、朝のお勤めに参加さえていただき、朝ごはんをいただき、出撃です。

(参考:金剛峯寺)様をお参りし。

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ついに高野山大師教会様に到着です。

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(参考:御受戒)の申し込みをしていますと、又、例の邪魔が。気分が悪いと、母が椅子に座りこみます。私はまた小声で御宝号、真言を唱えます。本当に不思議ですが、しばらくすると、むくっと起きて行こうかと治ったようです。こんなのがずっと続いています。

いよいよ受戒をうけます。丁度、お遍路の団体さんがぞろぞろと入れ違い、我々二人のみでした。

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受戒の部屋に入りますと、暗い部屋の中に、御大師の御影がろうそくに照らされています。暫くすると、受戒をしてくださる阿闍梨様一行さまが入場してきました。

儀式が始まりました。一通り、詠唱するように言われますので、阿闍梨様が言ったとおりにこちらも声を出します。一通り完了し、阿闍梨様からお言葉をいただきます。

阿闍梨様「よく来られましたね。どちらから?」

私「栃木県からです」

阿闍梨様「遠路よくこられましたね。またしっかりとご宝号を唱えていただいたし、袈裟や数珠なども持たれてしっかりされていらっしゃる。」

私「ありがとうございます。」

などというちょっとした会話でしたが、法話もいただき、充実でした。30分ぐらいでしょうか。

その後は、(参考:大伽藍)に行きまして、大塔、金堂などを見て回ります。

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最期は、奥の院です。結構、歩く距離があるので、母が心配でしたが、なんとか歩き来てました。心なし、受戒を受けてからはちょっと違う感じです。

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霊廟前でも作法をして病気平癒をいのりました。

お昼ぐらいでしょうか。奥の院近くで昼食をたべ、次は(参考:天河弁財天)を目指します。縁がないといけないという場所です。今の母の状態ならご縁を頂いて良いかなと思いまして。

しかし、この後、とんでもない苦労が発生します。カーナビ設定を間違い、龍神スカイライン経由でなく、細いワインディングが1時間以上も続くとんでもない道を選んでしまいます。カーナビ上では、山しか表示されず、道がまるで渓流の表示のような状態で只管、ステアリングとブレーキングを続けます。
途中、母が流石に調子が悪くなり、辛いといってきます。しかし、こんな山奥で止まるわけにもいきません。もうちょっと我慢してくれ、と思いつつ、そうだ、ご宝号と真言だと、小さい声で唱えます。暫くすると、母は寝てしまったようです。危ない危ない。

2時間弱はワインディングを走ったでしょうか。のりはWRCですよ。いくら運転好きな私でも今回の道は嫌な道でした。母は横で苦しんでいるし。

やっとの思いで、天河弁財天様に到着です。本殿、また病気平癒を祈りました。その後は、国道だけでしたので、息苦しい道もなく、やはり来た時より確実に調子が良くなっているようで、帰りは楽でした。関西国際空港に戻ってきました。

飛行機の下は雨模様のようです。今回の旅は曇り空のままなのだろうか。。。。

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あれ?もしかして?と思い、窓に顔を突っ込み、東に向かっている飛行機の後方、つまり西の空を見ます。

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雨空の雲の上は青天であり、沈みつつある夕日に染まる空には。。。。。あっ!宵の明星、金星だ!写真には写りませんでしたが。
爛爛と光る金星が見えて、嬉しさと、何か「今回の旅は伊達じゃない。きっと何か好転するはずだ!」という凛凛とする思いが胸に広がります。南無大師遍照金剛、ありがとうございました。受戒いただきました!

流石に日が落ちて完全に夜なりました。さて、音楽でも聴くか。

(参考 youtube:Kalafina 「storia」)



無事に成田空港から帰宅です。

その後、私は母に病気平癒の呪符を作成します。その呪符は密教系で、枕の下に入れるタイプで当人に寝る前に光明真言を唱えてもらうものです。御宝号もですが、母も受戒で光明真言をうけているので、尚良いです。また、普段持つタイプも作成して。

母は数回手術をしますが、基本は臓器を取ることを選択せず、数回、内視鏡手術を受け、抗癌剤を受けましたが、なんとか収束したようです。お陰様で、今では母も体調も戻り、平穏を取り戻しております。
趣味になればと教えた、温泉に通う毎日です。

そうだ、そろそろ、10月14日の密教セミナーの概要を皆様にお知らせしないといけませんね。もう少々お待ちください。

引き続きよろしくお願いいたします。

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