お世話になっております。

本日は、十傳スクール断易中等科の後半の開始日でございました。

気が付けば、断易初等科から2年が経ちました。早いものです。
断易初等科ABコース1年、Cコース半年、そして、中等科前半の半年完了でした。

今のテキストがこちら。「鬼谷断易 天玄賦通解」。

十傳スクール断易中等科・通玄賦通解テキスト

古文と和文と事例の構成で、軽快に小野先生のご講義が進みます。一瞬も油断できず、ひたすらノートしていきます。
今日は『子孫用論』の続き。

その中でも興味深かったのは、占墳墓の章。前の記事にも書きましたが、小野先生ご自身はあまり宗教云々は距離を置かれていらっしゃいますが、いろいろなご相談を対応していくと、結局、原因がこうしたことになり対処して改善する事例が、特に昨今増えているようです。逆に言えば、こうした基本的なことを疎かにしている人が増えているともいえるかもしれません。
曰く、お墓をちゃんと祀らないと祟るよ、そして原因不明の難病や奇病、一族の不幸など、その怪しい影に祟りありというわけであります。
それが断易は、どのような高性能レーダーを以てしても捉えられないことがら、くっきりとその原因すら浮かび上がるというものです。凄い!ですし、祟りはゾゾゾですね。

(参考: 「お墓の話、先祖供養、侮れないです」 )

このような形で、授業の途中で、更にいろいろなトピックをいただけます。これまた、重要な開運ナレッジとなっていきます。

今日のトピックは小野先生のご著書「(参考:幸運と不運の法則―成功をつかむための「運命学」」にも掲載されております、易聖・高島嘉右衛門先生のお話しでした。

お勉強のために、そして、その素晴らしいご生涯を銘記させていただきたく、以下、Wiki様でのご説明ほぼ全文を引用させていただきます。

(参考:Wiki様)高島嘉右衛門
 
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〇入獄
江戸三十堀間町(現・東京都中央区銀座)に第六子として生まれる。父親の薬師寺嘉衛門は、常陸国新治郡牛渡村出身で江戸に出て材木店「遠州屋」を始めた。兄は皆夭折したため嫡子となる。幼少のころは父の教えに従い、四書五経や六諭衍義などを学ぶ。何度か読めばすべて覚えてしまうほど記憶力はかなりよかったらしい。14歳のころ父の営む材木商兼普請請負業や盛岡藩製鉄事業に従事するようになる。父・弟とともに東北で7年間働く。
父の死後、棄捐令による影響や次姉の養子の放蕩により莫大な借金があることがわかり、その返済に奔走することになる。その頃父の名「嘉衛門」を襲名する。22歳の時に材木屋を始め、安政の大地震の時に江戸に大火が起こり、被害を受けた佐賀藩邸の普請や材木の売却により2万両の儲けを得ることになったが、盛岡藩藩邸普請の際に暴風雨に見舞われ材木の流出や盛岡藩の支払い拒否により、却って2万両の負債を抱えることになった。
そんな中、佐賀藩家老・田中善右衛門の斡旋により、1859年(安政6年)、横浜に伊万里焼の磁器や白蝋を一手に販売する肥前屋を開店。その際外国人を相手に、国内と国外の交換比率の違いを利用して金貨を売り多めに銀貨を受け取って儲けていたが、当時この交換方法が禁法だったため目を付けられ、潜伏するも後に自首。鉱山の採掘にも手を出しており、外国人相手にご禁制の小判を密売した罪で逮捕される。1860年(万延元年)、牢に入れられ、1865年(慶応元年)に釈免される。この時「嘉右衛門」に改名する。

〇横浜発展に寄与
江戸所払いになったため横浜に向かい、店を借りて材木商を始め、アメリカ公使を介してイギリス公使のハリー・パークスから公使館建築を請け負った(設計はリチャード・ブリジェンス)のをきっかけに他の多くの外国人から建築依頼を受けるようになった。
1867年(慶応3年)、当時横浜には政府高官や外国人を受け入れる旅館がなかったことから、尾上町に大旅館「高島屋」を建設(百貨店の高島屋とは関係ない)、政府高官などと人脈を作る社交場としても利用した。このころ盛岡藩が官軍に抵抗したために政府からの締め付けのため70万両の献金が必要になり嘉右衛門に相談。飢饉の問題などもあったが、本人曰く「至誠奉公の大精神」でこれを成し遂げ藩とその領民を救った。
1870年(明治3年)、伊藤博文と大隈重信に京浜間鉄道敷設の必要性を説明したところ、後に大隈より事業参加の打診があり、線路短縮のために横浜港埋め立て(現在の西区野毛町〜神奈川区青木町)を実行する。当時この事業の引き受け手がなかなか見つからず、埋め立て開発した者には鉄道線路を除きその土地を永代拝領するという条件が新政府から出されていたが、高島はそれを政府に献上したため、その偉業を称えて高島町と名づけられた。
ドイツの商会が神奈川県のガス会社建設の申請をしたため、外国に権益を奪われることを憂い、数名と「日本社中」を結成。ガス会社建設の権利を得て、フランス人技師を招いて1872 年にガス工場(横浜瓦斯会社)を建設する。1872年10月31日(明治5年9月29日)夕刻、横浜の地にガス灯を灯した。10月31日のガス記念日はこれに由来する。またガス灯を利用した芝居小屋港座も開設している。1874年(明治7年)には東京でのガス燈建築を計画。同年、横浜港〜函館港間の定期航路を開通するが、採算が合わずに翌年中止になった。
1871年(明治4年)には西洋人の教師を雇い、語学中心の藍謝堂(通称「高島学校」)を創設。福澤諭吉を招聘したが実現せず、福澤は代わりに弟子の海老名晋、荘田平五郎、小幡甚三郎ら慶應義塾の高弟を講師に推薦し、派遣した。同校からは寺内正毅、本野一郎、宮部金吾といった人材が輩出している。貧しい学生には経済的援助もした。また、この時期に下水改良工事も手がけている。1873年(明治6年)には学校設立の功により明治天皇から三組の銀杯を下賜される(学校は1874年(明治7年)に焼失)。

〇隠棲後
1876年(明治9年)に大綱山荘(現・横浜市神奈川区高島台)に一時隠棲する。1877年、ガス局が高島に功労金を贈ったことが問題になり、市民を巻き込む訴訟騒ぎとなる。1887年(明治20年)に海防費1万円を献納して従五位勲四等に叙任。その後愛知セメント株式会社を興す。1888年には、日本に亡命した朴泳孝を別邸に住まわせた。1892年(明治25年)には北海道炭礦鉄道株式会社の社長に就任。石狩、十勝では拓殖事業を行う。1893年に横浜の財産をすべて高島嘉兵衛名義に変更し、一家で北海道へ移住。また東京市街鉄道株式会社社長を歴任した。珍しいところでは清水次郎長の開拓した富士の裾野も購入している。1896年には、帝国貯蓄銀行の開業にも関わった。嘉右衛門の跡を継いだ高島嘉兵衛が1908年に破産する。

〇家族
家族に妻の「くら」がいたが子はなく、6人の子は側女のキンとの間にできた子。弟に徳右衛門。また長子の高島長政は養子で、徳右衛門の三男。政府高官とも親交があり特に伊藤博文とは仲が深く、嘉右衛門の長女たま子は伊藤の養子博邦と結婚している。

〇易断家
高島易断
嘉右衛門は、実業家としても有名だが、易断による占いでも特に有名で、今でも「易聖」と呼ばれている。
安政の大地震の数日前、嘉右衛門の周りで奇異が起き、弟より理由なく釜が鳴ったのを聞いて、幼少時に学んだ易経に従って卦を立てたところ「火」に関する卦を得たため大火が起こることを予知して大量の材木を買収、数日後に大地震が発生。その後は上記にある通りである。
1860年に貨幣密売の罪で入獄したとき(1873年にも入牢している)、牢内の古畳の間から易経が出てきたため、易経を暗誦できるまで読みふけり、紙縒りを作って筮竹として占った。この出来事がきっかけとなり、普段の生活の中でも卦を立てていた。1876年(明治9年)の隠棲後は易の研究をおこない、易占に関する講義や著述を行う。易断の集大成ともいえる著作『高島易断』は漢訳され、袁世凱、李鴻章など清の知識人たちにも贈られた。また彼は、易を一種の宗教ととらえていたから、人を使ってこれを英訳させたうえアメリカ・シカゴで開催された「世界宗教大会」に提出させた。1885年には「神易堂」を建設し、孔子祭を行なった。
出獄後のほとんどの事業で卦を立て、それに従って成功してきたとされる。また政府高官も征韓論など政治の重要な事は嘉右衛門に占ってもらう者が多かったという。日清戦争、日露戦争の占いは国民新聞や報知新聞にも掲載された。日本に亡命していた金玉均や朴泳孝も嘉右衛門の世話になっており、門人として易も習っていたようである。
西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文の死期の卦までも立てたといわれている。特に伊藤の時に立てた卦は艮が重なる艮為山で、重艮が安重根を指しているとして、暗殺者の人名も当てたとされている。しかし伊藤の死を予見しながらも、伊藤の決意を翻すことができなかったことから、これ以後、他人を占うことはなかった。
また自らの死期を予知し、生前に既に死期を記した位牌も持っていたとされ、その予知通りに死去。墓所は赤穂浪士の墓所でもある泉岳寺。戒名は「大観院神易呑象居士」。
入獄中に脱獄を持ちかけられ困っていたところ、運よくその話が露見し御破算となった。高島が密告したと疑われて殺されそうになったものの、運よくこれも逃れることができた。以降、これを祝って、年に一回、高島家に出入りの者全員に牡丹餅を振る舞うのを習慣としていた。
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凄い人です。実業家だったんですね。横浜の高島町の由来、ガス会社を作り横浜の地にガス灯を灯したり、日本を動かしていった政府高官とも親交があり、特に伊藤博文公とは親友だったようで、ご長女は伊藤博文公のご養子博邦さんとご結婚されていたりします。

小野先生の上に挙げた本で引用されているのがこちら。事実ベースの小説風ですので、楽しめます。特に、牢屋で殺されそうになり、易で九死に一生を得るシーンは圧巻。その紙一重、死を超えて、ご尊顔に一振りの太刀筋を残して、実業家にして易聖としての華やかな運命を切り出されていったのです。

(参考:Amazon様)「横浜」をつくった男―易聖・高島嘉右衛門の生涯 (光文社文庫)

これらの書籍も推薦図書といえますね。

読書の秋、皆さまもご精読いかがでしょうか?我々は書籍からも、そして、ご継承を続けるご先人の方々からもその時代の息吹を感じることができるように思えます。

引き続きよろしくお願いいたします。

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