お世話になっております。

昨日は、冬至(12/21:丁丑)に最も近い甲子日ということで奇門遁甲で重要な陰遁⇒陽遁に切り替わる日。このような日には寺社仏閣にいくとよいと小野十傳先生もおっしゃっています。

とはいうものの、仕事もあるので移動とお昼休み時間がてらにいくにはどこにいくべかな?と。そうだ、これもご縁だと、昨日の投稿で触れた、
(参考 神田明神様)へ。

(参考:風水都市『東京(江戸)』における四神相応と『五帝霊符』について )

(参考 wiki様:神田明神)
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社伝によれば、天平2年(730年)、武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀ったのに始まる。神田はもと伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称した。
承平5年(935年)に平将門の乱を起こして敗死した平将門の首が京から持ち去られて当社の近くに葬られ、将門の首塚は東国(関東地方)の平氏武将の崇敬を受けた。嘉元年間(14世紀初頭)に疫病が流行し、これが将門の祟りであるとして供養が行われ、延慶2年(1309年)に当社の相殿神とされた。平将門神に祈願すると勝負に勝つといわれる。

〇伝説
なお、同じく将門を祭神とする築土神社にも同様の言い伝えがあり、成田山へ参詣するならば、道中に必ず災いが起こるとされた。将門に対する信仰心は、祟りや厄災を鎮めることと密接に関わっていたのである。
ただし、成田屋の屋号で知られる歌舞伎の市川宗家では歌舞伎十八番の一つ「鎌髭」で将門を演じており、「助六」を演じる際には魚河岸との関わりから神田明神内にある水神社への参拝を行う。
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将門公の都市伝説には成田山に祈願できないとありますが、では徳川家康公はどうされたか?
将門公のことを「武士の始祖」と扱い、丁寧にお祀りし、江戸の守護神にしてしまいました。では、成田山の扱いは?

(参考 Wiki様:成田山新勝寺)

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成田山新勝寺は平安時代中期に起きた平将門の乱の際、939年(天慶2年)朱雀天皇の密勅により寛朝僧正を東国へ遣わしたことに起源を持つ。寛朝は京の高雄山(神護寺)護摩堂の空海作の不動明王像を奉じて東国へ下り、翌940年(天慶3年)、海路にて上総国尾垂浜に上陸。平将門を調伏するため、下総国公津ヶ原で不動護摩の儀式を行った。新勝寺はこの天慶3年を開山の年としている。乱平定の後の永禄年間(1566年(永禄9年)頃と考えられるが未詳)に成田村一七軒党代表の名主が不動明王像を背負って遷座されて伽藍を建立された場所が、現在の成田市並木町にある「不動塚」周辺と伝えられ成田山発祥の地と言われている。「また新たに勝つ」という語句に因み新勝寺と名づけられ、東国鎮護の寺院となった。その後、新勝寺は戦国期の混乱の中で荒廃し、江戸時代までは寂れ寺となっていた。
江戸時代には、江戸(征夷大将軍の城下)でたびたび成田不動の「出開帳」(現代の語感でいえば、「秘宝特別出張公開」)が行われた。1703年(元禄16年)、深川永代寺(富岡八幡宮の別当寺で、廃仏毀釈により廃寺になったが、塔頭寺院が1896年(明治29年)名跡を再興した)で行われたのが初めで、江戸時代を通じて12回の出開帳が行われた記録がある。歌舞伎役者の市川團十郎が成田不動に帰依して「成田屋」の屋号を名乗り、不動明王が登場する芝居を打ったことなどもあいまって、成田不動は庶民の信仰を集め、成田参詣が盛んとなる。
明治維新以降、新勝寺はお札を通じて、戦時下の人々の精神的な助けとなった。当寺の「身代わり札」は「鉄砲玉から身を守る札」として日清戦争当時から軍人らに深く信仰されていた。満州事変から1945年の敗戦に至るまで、「成田市史年表」から拾い出すだけでも、33年から41年までの間に、歩兵第57連隊の兵士や近衛兵たちが10回以上も参拝し武運長久を祈願、お札を身につけている。 18代住職荒木照定は1928年に新更会を設立、「成田町報」などを通じて、地域の民衆に対して、日本古来の伝統的思神田明神を崇敬する者は成田山新勝寺を参拝してはいけないというタブーが伝えられている。これは朝廷に対して叛乱を起した平将門を討伐するため、僧・寛朝を神護寺護摩堂の空海作といわれる不動明王像と供に現在の成田山新勝寺へ使わせ乱の鎮圧のため動護摩の儀式を行わせた、即ち、新勝寺参拝は将門を苦しめる事となるため。

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何か実態と伝説が乖離していますよね。結局、江戸の人々は神田祭も成田詣も両方愛したようです。因みに私は両方愛しておりますw 成田山にはお勧めの易者さんがいますので、また記事にしたいと思います。

そもそも、徳川家康公は天海が新たに起こした「山王一実神道」という、神仏習合の世界を推し進めた、東照大権現(家康公)を中心とする宗教政策の世界観がありますし、聖徳太子以来の和を以て貴しとなす、神道ありきで仏教を受けれた日本の国体を鑑みれば、既に神になられた将門公がそのような境涯にいるのはどうなんだろうというのが私の考えです。この考え方でいくと、お墓詣りしたとき、故人が好きだったからとお酒をあげたりかけたりする人がいますが、仏教的な見方だと既に仏の段階を目指している人に娑婆の世界の迷い水をあげてどうするんだ、という見方をする考えもあります。実際、古神道の使い手で、昔、三時のあなたという番組で取り上げられた方、凄腕の霊能者の方は、「子孫で気狂いが出るのでNG」とこのように言ってます。私は素直に、墓に酒はやりませんがw
あと、明治天皇もこられていますが、宮家の方は関東に王国を作ろうとした将門公を恐れていたので、まあ、そういう血筋の方は、ご鎮魂を祈りにこられるのは良いと思います。これも前に書きましたが、その考え方がどういう源から発しているんだというのを確認しないで、チャンコでやっていると破綻しますよね。

そういうわけで、私は北斗七星の化身であり、東京の守護神たる将門公を崇拝し、また関東の守護を担う成田山の不動明王にも深く帰依しています。ありがたや、ありがたやですねw

そもそも、ご利益が真面目にあると為政者が嘘の情報をながしたりします。代表的なのは聖天信仰ですが。まあこちらも別途書きましょう。三井、三菱などの財閥家が祈ってきた神仏でもあります。

というくだらない、ことを考えているうちに、末広町からきたらこんな坂を上がりました。ふと振り返り。

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一旦、本殿を通り、正門へ。ご由来など撮影。

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立派です。

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何か今日は空が清々しいですね。吉祥と勝手に判断w

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手水を取り、本殿にて礼拝。結婚式が行われていました。今日やるのって相当凄いですね。上には上がいるw
お幸せに!

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この辺かな。

立ったまま瞑目、深呼吸します。

「日光山から発した龍のエネルギーは山河を通って、東京に到達する。まずは龍穴たる皇居に舞い降り、天の方に光の柱がたちあがり、四方に脈が分かれていく。その一つが神田明神に舞い降り、私の体に降り注ぐ」
こんな観想です。

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穢れの解除、エネルギー重点完了!なんちゃってw

さて、折角ですので、小野十傳先生より直伝の絵馬の秘術を実施します。祈祷を受けても良かったのですが、時間がないのと、結婚式やっていらっしゃるのでこれ無理かなと。そうだ、絵馬だ!と。

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七末社のご案内。将門公は北斗七星をご信奉された方。その御影には北斗七星が刻まれています。これはゲン担ぎでお参りせねば。

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末舎七社をめぐり、御神籤を引きました。獅子舞ロボがとってくれます。結果はおお、まあまあでした。

さて、男坂から帰り途中、このようなお店を発見。

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天丼をいただきます。おいしかったです。

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早々に神社をあとにし現場に戻りました。確かに、午後の会議、バシっと発言できました。いい感じw
「将門公が応援してくださっている。。。。」となると、百万の軍勢の後押しをいただいているように感じましたね。

引き続きよろしくお願いいたします。

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